早いもので長男は4月から中学生。宿泊施設の料金は中学生から大人扱いになりますから、子供料金で泊まれる最後の旅行へ行こうと言うことになり、群馬県の水上(みなかみ)温泉へ行くことに。
早速、水上の観光地やら、グルメやらをワクワクしながら検索していると、ふと「太宰治ゆかりの宿」なるこちらの旅館が目に留まります。
あ、私、結構太宰が好きで、過去にお墓参りや、ゆかりの地なんかを訪れております。
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で、調べてみたら、水上温泉は彼の作品「姥捨(うばすて)」の舞台になっているとのこと。こりゃあ面白そうと、早速読んでみます。
オンラインで無料で名作を読めるとは、便利な時代になったもんです。話がそれてゴメンナサイ。
太宰は水上温泉で、最初の奥さんと自殺未遂をした経緯があり、その時の様子をネタに描いた作品が「姥捨」でございました。
上の「旅館たにがわ」の駐車場に太宰治文学碑があるみたいなんで、水上を訪れた際には是非とも立ち寄ろうと思います。
そして、太宰を思い出す時、私的に必ず同時に思い出すのが、かの尾崎豊なんです。
個人的にこの二人、とっても似てるなぁと思うんです。
酒、薬物に溺れ、不倫、挙句の果てに不可解な死を遂げている(太宰の入水場所には、下駄を突っ張った跡と、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡がくっきり残っていたとされ、自殺にしては不可解な部分があった)点が先ずは共通項。
今日では、彼らみたいな人達はひとくくりに「境界性人格障害」とか呼ばれるみたいですが、何でもかんでも障害にしてしまう昨今のこの流れ、どうにかなりませんかねぇ?
しかし、私が彼らを似ていると思うのはそんな表面的な事ばかりじゃあないんです。二人とも分野は違えど、生み出す作品に対して、芸術にまで昇華しうる、むき出しの魂で挑み、妥協やごまかしを一切許さない姿勢を貫いていたことが似てると思うんです。
彼らにとって想像を絶するほど生き難かったであろうこの世の中で、生きるとは何ぞや、人生とは何ぞやを常に問い、自分自身と闘い、その苦しみを素晴らしい作品にまで昇華させた点が似ているなと思うのです。
本当の芸術というものは、何かを犠牲にしなければ、命を削るような魂の叫びからしか、生まれ得ないのではないかと、個人的には思っております。
じゃあ、本当の芸術とは何ぞや。
それは後世に残る物をいうのでははないでしょうか。
世の中の矛盾から目をそらさず、真っ向から立ち向かい、己の弱さや悩みを、太宰は文章で、尾崎は歌で表現し、それら彼らの作品にはどれも、読む者、聞く者を兎に角楽しませようとする心遣いが、滲み出ているように感じるんです。
太宰の「津軽」の中にこんな言葉があります。
「大人とは、裏切られた青年の姿である」
大人とは、青年が人や社会から裏切られて傷つき、純粋さを失ってしまった姿そのものだという意味でしょう。
一方、尾崎の「Bow!」という曲の歌詞にこんなのがあります。
「鉄を食え 飢えた狼よ 死んでもブタには 喰いつくな」
汚れた大人になるくらいなら死んだほうがマシとでも言いたかったのでしょう。
二人とも純粋さを失い、汚れた大人になってしまう事を、極度に嫌ったんじゃあないでしょうか。そういう意味では、大人になる前(汚れる前)に死を選んだ、彼らの選択肢は最後まで自分の美学を貫いたとも言えるかもしれません。
ん?彼らの事を検索していたら、なにやら聞き捨てならぬコメントが。
「凡人というか、アルコール依存症の男性は、えてして、太宰治や尾崎豊に憧れます!神のように崇めたりします!」
オ、オレの事?(←大酒呑みのオッサン)
お後がよろしい様で。
それではこの辺で、
グッド・バイ(笑)